2月
作者近況 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 1月 12月以前

11/30 とても沢山の事をこなした一日。仕事の合間を縫って作品のドライマウントやカッティング。2002年の広尾の展覧会の作品を全て複写した。納品や打ち合せが多く、夜遅く帰宅。

久しぶりに大きな作品をドライマウントで仕上げた。朝早く作業を進めたので視力が悪く、とても気を使う。販売した作品なのだが、納期に余裕が有り先延ばしになっていた作業だが、他の作品と一緒に撮影を済ませておかなければならない事情も有る。

例え時間に追われ、厳しい条件であっても、自分の作品を複写する作業は楽しい物である。かなりハードな作業で腰痛が復活してしまったが光の中にある自分の作品は例えようのない喜びを与えてくれる。写真が平面であり、工芸としての芸術とは無縁のものである事は理解する所だが、印象派の絵画のように光の中で始めて輝きを放つゼラチンにしばらくは見とれてしまう。複写するカメラの中のファインダーは密かな愉しみと言うような特殊な空間だ。

仕事の忙しい一日だったのだが、何とか最近の作品の複写の作業を終わらせる事が出来た。NYの展覧会に出す作品を全ての作品のコンタクトから撰びたい事と、キューレターの為のCDロムを作らなければならない。

明日からの3日間は他のスタジオに缶詰めで自宅に戻る事もままならない。今日のひとときは重要である。明日の準備を済ませ日付けが変わってから帰宅。しばらくは一日24時間を使い切る。


11/29 午前中は児童図書の表紙を撮影。午後からは他の誌面で料理の寿司を撮影する。小道具の返却や現像のテスト出しを渋谷迄出掛けて済ませた後、自宅に戻りデジタルのデータを現像する。遅くなってから暗室を片付けて、作品のドライマウントの準備、久しぶりに夜遅く迄働いた

良い物であれ、悪い物であれ、刺激の中で本来の自分の生き方を取り戻そうと思う。そうなりたく無いと思う物もあれば、その流れを少しでも手にい入れたいと思う時もある。

最近の作品をチェックしていて、幼稚な構成の物が多い事を苛立たしく思ったりもするのだが、その中から、少しでも良い所を伸ばして行かなければならない。全てが私の命。まだ生まれたばかりなのだから、、、、


11/28 朝、久し振りに湯本の鹿の湯に入る。2、3年前に始めて訪れた時よりも改築されて大きくなった様だが、古めかしい趣は変わらない。何時も込み合っていて少し落ち着かないのだがここの源泉は本当に身体にしみ込んで行く。栃木に来る事はめったに無いのだが、これを期に機会を作っても良いかも知れない。

駐車場の脇の殺生石で見なれない動物の死体を見つけた。後で解ったのだがハクビシンらしい。動物の死体が見受けられる事から殺生石と言われていたような由来だった事を思い出した。草津や万座でも同じような光景を目にした事がある。

午後には栃木のアーティストのアトリエを訪ね併設したギャラリーで行われている工芸作家の作品を見せてもらう。夕方迄話し込み暗くなった頃アトリエを出る。いろいろな作家ののライフスタイルに触れる事はとても刺激になる。その世界が完成された結果で無くて、先の見えない、過程であればある程光を放っているように感じるのは私だけなのだろうか?


11/27 出掛ける前に近所のオートバックスでその他の点検もしてもらう。夏になってから漏れ始めたデフオイルは500cc程を補充する。商売道具のワゴンなので手入れだけはちゃんとしておきたい。

いろいろな用事を余裕を持って済ませていたつもりだったのだが、先日撮影したデジタルデータの現像をすっかり忘れていた。月曜日の納品迄時間が無いのでプリントアウトも含めてあわてて処理をする。夕方に出発して那須高原の湯本迄出掛け車内泊。明日は栃木のアーティストのアトリエを訪ねる予定。


11/26 支払いにまつわる経理の処理や昨日のフィルムの本番の指示。午前中で終わりそうな仕事の量だったのだが、年度の切り代わりや年内の〆などいろいろな用事が重なって夕方迄時間を取られる事となる。本当なら少しでもプリントの処理を進めたかったのだが、、、

少しではあるが、来年度に関わる仕事が入り始めている。未だ先は読めない状況だ。そんなに忙しくなる事も無いだろうと思うのだが、、、

昨日のプリントをあらためてみてみると階調の圧縮に因るダメージが比較的少ないように感じて、この紙でも少しトリミングして背景の黒の面積を少なくしてしまえば、プリントできるのでは無いかと考えはじめる。何とも印画紙とは不思議な物だ。それとも私自身の心理的な変化なのか???

出掛けたついでに車のオイルを交換した。細かいメンテナンスを含めて一万円近い出費。今の自分には苦しいのだが、この車の働き振りからすればなんとも安い物とも感じられる。とても良く働いてくれる。ただ恐ろしく燃費の悪い車なので一度給油すると今では1万円近く掛ってしまう。ガソリンの値上がりは深刻だ。明日は可なりの距離を走りそうだ。

今日は床屋へ行こうかかなり迷ったのだが、先月、意を決して劇安の2000円理髪店に行った事で、自分のなかの気持が複雑に絡まってしまった。そこでも其れ程の違いは自分では感じられなかったし、知人に聞いても見た目は変わらないと言われたのだが、何時もそこで良いのだろうかと言う話になると友人の意見が別れてしまい、私自身少し考えさせられる部分もあるようだ。

其れではダメだと言う人の話になるが、たとえば女性、ほとんどの女性は自分の身体の手入れに関して特別な思い入れを持っている。男性が、自分の身だしなみの中で唯一他人に任せている部分を、その場の自分の判断だけで決めてしまう事は、隣人の自己に対する美意識に無関心になる事を助長すると言うのである。生活や環境に合った心理的な身だしなみが必要だと言う事なのだが、、、、、一理ある事はあるのだが、、、、、


11/25 久しぶりに児童書の撮影。今回は3月号で一通り1年の周期を廻った事になる。4月号からはスタッフは入れ代わるのだが企画そのものは継続で撮影は続きそうだ。

毎年の事なのだが、この時期になると仕事の流れが掴めない。年末のスケジュールが分かりにくい事に加えて、新年度がどうなるのかがまったく予想がつかないからだ。

メンバーが入れ代わる事について、いろいろな不安もあるのだが、どちらかと言うと新しい出会いへの期待のような物の方が大きいのかも知れない。特に今回は仕事そのものは変わらないのだから、、、

渋谷に出掛け、現像所に寄ってから帰宅。冷凍食品の餃子を焼いて夕食。あまり旨く無い。食べるのは好きなのだが餃子を作った事は一度も無い。とても興味があるのだが、とにかく始めは誰かに教わらないと作り方が把握しにくい料理のように感じる。旨い焼き餃子。手軽に出来たらさぞかし楽しいだろう。冷凍も出来そうだ。

昨日のプリントをフラットニングしながら考える。黒は面積に心理的な要素が大きく左右される。紙の特性が合っていないのならば、トリミングする事を考えたらどうだろう?撮影の時のイメージ、印画紙の中のイメージ、再現できる妥協点を探って行かなければならない。

このイメージは、オルタネイティブ、たとえばコロジオンなどであればさぞかし美しく再現できるようにも感じるのだが、其れも夢物語り。撮った時に思い描いていたゼラチンシルバーで仕上げたい。例えトリミングしたとしても、、、


11/24 昨日のネガで作業を続ける。昨日まったく見えなかったイメージが少しだが形になり始めた事を感じる。手がかりをつかめる所迄プリントし、何とか次のネガに取り掛かる。

昨日どんなに試してみても全く形が見え無かったイメージが今日はハッキリと目の前にある。この暗室の中で表現も創られて行く物なのか。自分の技術や感性が一度失われ、再び生まれ変わって行くのを感じる。カラーのポジを扱っている時にはこういう感覚は決して見る事が無い。ポジの中に、失望か喜びがあるだけだ。

もう一点新しいネガに取り掛かったのだが、これがとても難しい。頭の中に撮った時のイメージはハッキリあるのだが、印画紙の黒がその表現の限界を超えている。光にかざしている時はすばらしいのだが、ドライダウンを想定して観察すると全く見えてこないのである。光の中では撮影した時の全てが再現されてすばらしいのだが、、、

このシリーズは全部で3〜4点は仕上げなければならないので、もう少し現像液の調合を考える時間が必要かも知れない。紙を変えたいのはやまやまだが、のちのち大きいサイズに伸ばす時に足掛かりが掴めなくなりそうに感じる。

印画紙を変えてみる事によって新しいイメージが見えて来る事はよくあることだ。其れはその紙で無ければ表現が不可能と言う事では無く、其のイメージへの足掛かりがそこにあると言う事だ。もちろん其の紙を使う事がベストだとは思うのだが、、、悲しい事に印画紙を作っているのは私ではない。


11/23 先日に続き暗室で作業を始める。朝早く始めたのだが何時にも増して調子が出ない。撰んだネガも難しいイメージなのだが、まったく形が見えてこずに、ただ呆然とテストを見ては、違う処理を繰り返す。何も得る事が出来ない。

このイメージを撮影したのは98年。自分の中でも複雑な思いを廻らせていた時だったと記憶する。思えば現在の自分とのギャップが大きすぎてその形の中にあるイメージが見えてこないのだろうか。当時の自分と比べると今の私にはその空間への枯渇したイメージが全く無いのかも知れない。

これが堕落なのか、進歩なのかは今日の自分には不思議なくらい関心の無い事で、ただただ形が見えてこない事がもどかしい。呆然としながらも不思議と焦りは感じないのだが、宙に舞う意識を持て余していた時偶然、友人から電話があった。

現実の呪縛を解き放つ感性。何を求めているのかがだんだん曖昧になって行く。写真の表現は他の芸術とは違ってもっとも直覚的な物だと思う。しかし現実として人々はこの芸術を時代の表象になぞらえて受け止めるのか。

私が求めている物は時代の意識でもなければ、新しい言葉でも無い。1920年のポール・ストランドであり、1930年のエドワード・ウェストンに他ならない。新しい物など欲しく無い。


11/22 昼過ぎ迄銀行で過ごす。これで全て終了し、しばらく銀行に出向く事も無くなるだろう。いろいろな用事の為に4回も渋谷迄出かけた慌ただしい一日だったのだが、先週の北海道のフィルムを全て納品したり、多くの事が前倒しに出来た効率の良い時間を感じている。

忙しい中東急ハンズに出掛け、引き戸の車輪と水道のパッキンを買って来た。現像の待ち時間にそれぞれ交換したのだが、物を直すと言う事はとても楽しい事だと思う。我が家には未だ直さなければならない所が沢山ある。

東急ハンズに出掛けたついでに酒の河内屋に出向きルイ・ジャドーのボジョレーヌーボーを2本買った。1本は来週出向く展覧会のお土産に、もう1本は週末に飲もうと思っている。

この酒は幸福な人にしか意味の無い物だと思う。不幸な人には似合わない。今の自分はとても幸福だ。


11/21 朝早くから掃除をし、ラグなど大きな物を洗濯した。かなり厚手の素材なのだが夕方にはすっかり乾いていた。暗室で作業を進めたのだが、やはり数日続けなければ調子が出ない。

長らく手掛けてい無かった抽象的な被写体が少しづつ紙の中で形になり始めて来た感じがする。抽象的な被写体を抽象的に表現する。この世界には何か不思議なパラドックスの様な物が潜んでいて、かなりな堂々回りの後にふと最初の一枚に辿り着いていたりする。以前この手の被写体ばかり手掛けていた自分にとって恐怖のような記憶が付きまとう。

しかしイメージが形の中に見え始めるとどんな物よりも強力で、恐らく自分の感覚の中を廻りながら増幅され、これ意外に写真の独自性など存在しないのでは無いかと思わせる程大きな感動を起こさせてくれる。

A.スティーグリッツの雲のシリーズ、ジョージア・オキーフの手を撮ったシリーズなどを久しぶりに見てみたい。被写体へのアプローチ、それは本当に同じ物なのか?


11/20 数日間の北海道の取材は何時にもまして順調に終了した。富良野や旭川では雪がかなり降り始めているのだが、札幌や小樽ではまだ根雪になるにはしばらく時間がかかりそうだ。広告の撮影なのでいろいろと制約はあるのだが限られた条件の中で良い絵が撮れたのではないかと思う。ハッセルのレンズはほとんどプラナーを使い、ゾナーは一度も使わなかった。

東京との激しい温度差のせいでまたしてもハッセルのボデーが壊れてしまった。いつもの事で気にはならないのだが、予備のボデーは必ず必要だと言う事か。

夕方から青山でゾーンシステム研究会の発表会に顔を出す。オープニングレセプションはいつもどうりかなりのにぎわいで中島さんの人望には感心させられる。熱心な活動や、そのグループの方向性、年を追うごとに高まって行くレベルなどを考えると氏の活動が的を得ていた物だと、考えさせられる。

NYから個展の会場の細かい資料が届く。とても良いギャラリーで気持が高ぶるのを覚える。少し大きめの額を使った方が良いような気がする反面、多角的な表現が必要な壁面だとも思う。作品のリストを近いうちに仕上げなければならない。今迄出来無かった新しい表現がしたい。シークエンスの考えを捨て去って望みたい。


11/16 8時前からスタジオに入り日曜日の残りのカットを撮影する。明日からの北海道を前にできる事は全て済ませておきたい。午前中だけで3件の打ち合わせなどがあり、時間に追われた緊張が付きまとう。

夜の9時を過ぎる頃明日からの機材を羽田に預け、やっと今日のノルマが終わった時はさすがにホットした。来週は祭日があったりで、今からロケのフィルムの現像を心配したり、いろいろな根回しをしなければならないのだが、やらなければならない事は全てやったと言う充実感もある。先の事を気にしていてはきりが無い。

久しぶりに夜の羽田へ車で出掛けた。新しいターミナルのオープンに向けて又しても駐車場へのアプローチが変わろうとしていた。この空港にはいろいろな思い出がある。良い思いでは一つも無いのでどんどん変わって行った方が気持は楽なのだが、今日は少し懐かしい気持になった。

時々変わって行く自分を感じる。この町の変化。変化する全てのテクノロジー。それらを超えて、違う世界で確実に私は進化して行く。多くの物、いろいろな人達を置き去りににして行く。過去を意識した時、人は加速する事を余儀無くされるのか?


11/15 かなり激しく雨が振る中スタジオに向う。午後近く小降りになった雨は打ち合わせに出かける1時頃にはほとんど上ってしまった。金曜の仕上りはまずまず。デジタルと合わせて明日の昼には納品したい。

午後からの打ち合わせは夕方迄かかり、17日からの北海道のロケの全貌がやっと明らかになる。特別ハードでは無いのだが未だ見えていない部分が多すぎる。

めっきり寒くなった。札幌や富良野はどんな具合なのだろう。できる事ならプライベートで北海道を旅したい。始めて道内を旅した季節が秋だったせいか、人が少なく近付いて来る冬の気配が充満する今の季節が好きだ。私は北海道の春を知らない。


11/14 アーティストの作品をスタジオで撮影。余裕を見てゆっくり進めていたら夕方から予定していたイベントの時間ギリギリ迄かかってしまい、あわてて出かける事になる。

横浜の関内で以前何度か行った事のあるクラブのパーティーイベントへ。6時のスタートから並んで入り、終電迄何時に無く長い時間を店で過ごす。六本木と違って外人が少ないからか安心していられるように感じたのは私だけだろうか。

表で丸焼きにした小ブタやマグロが運ばれて来たり、時々やって来るキャンペーンガールやフラお姉さん、店内の倒れた人達を除けながら向う怪しいトイレなど、騒音の中で何故だかくつろいでいく。


11/13 デジタルのデータを処理して出力する。かなりの枚数で午前中では終わらない。途中ビックカメラへ出掛け足りなくなったインクや紙を買って来る。夕方になってオープニングの誘いのあった2つの展覧会へ。更に夜遅く目黒川沿いのバーで飲む。

かなり仕事の量が多く慌ただしく目黒迄歩いて出掛けたのだが、目黒区美術ギャラリーで行われていたワークショップのグループ展は面白かった。中には有名なプリンターの方も混ざっているようで安心して見る事ができる。

暗室でのプリント作業が表現や感性を育むと言う話をこのあいだだブレットの展覧会のキャプションで見かけたが、ある意味この展覧会を見ていると技術的な物や効果が感性を押し上げているのを感じる。いろいろな角度から学ぶ事の多い企画だと感じた。

その後同じく目黒のギャラリーコスモスへ。ワークショップを企画した加藤さんの個展を見る。このギャラリーは初めてだが、とても照明の具合が良く無い。深い黒が反射して全体のイメージが掴めない。込み合っていて良く無い条件が重なった。

より良い技術に触れられる環境はとても大事な物だと思う。テクニックは確実に感性を押し上げ、次のステップを見せてくれる。何処迄を求めるかはその人の技量なのだが、きっかけが無ければ少しも前に出る事が無い。プリントの傾向や嗜好などと言う物は細かく審議する物では無く、取り合えず美しい物であれば何かは伝わるのだ。


11/12 朝早くから車で撮影に出る。料理のレシピの撮影なのでスタイリストをピックアップして企業の研究センターへ。丸一日撮影し現像所に寄ってからスタジオへ。機材の積み降ろしで少し腰が痛くなった。最近ではすっかり良くなった腰痛だが、気を付けていないとまたぶり返してしまうかも知れない。

長い電話をしていてふと気付くと部屋の時計がまた止まっている。今年になって3回も電池を変えたのだが、数カ月しか持たない。やはり壊れてしまったのか。何時迄経っても11時頃だと思っていたら1時を過ぎていた。

暗室で作業をしなくなって3日程経つが、プリントの事が頭から消えてしまっているような気がする。きっと続ける事が重要なのだと思う。作業の再開迄しばらく時間が開きそうだ。


11/11 朝早く現像所に出掛けた後、長い時間を銀行で過ごす。なれない緊張でかなり疲れてしまった。昼過ぎにフィルムのテストをチェックしてスタジオに戻り明日のロケの準備に取り掛かる。

理由は良く分からないが異様に疲れた、明日の為に沢山の機材を用意したのだが、忘れ物が無いか心配だ。明日もう一度チェックしてから出掛けよう。昨日撮影したフィルムは本番も良好でコンビニから宅急便で発送し明日には届く予定。

NYのギャラリーに来年の個展の会期についてメールで返事を書く。これでやっと決まりそうだ。


11/10 朝起きて昨日と同じように作品のフラットニング。今日は細心の注意を払って作業を進める。無事終了しホットする。

昨夜も酒を飲まずに寝た為に深く眠る事は出来無かった。今朝の体調は良いようで暗室の作業の後、スタジオに出掛け、経理の処理を済ませながら、午後の撮影の準備をする。

今日は始めての編集者との撮影でやや緊張した感じはあったのだが、会ってみるととても感じの良い人でスムーズに夕方迄の時間を過ごす。このメンバーで又仕事ができれば良いのだが、、、終了後ガード下の寿司屋で夕食。自宅に戻り長い電話の後久しぶりに気持良く眠る。ウィスキーが心と身体にしみて行く。


11/9 昨夜酒を飲まずに寝た為かあまり眠らないまま朝になった。同じようなイメージの夢を何度も見る。

朝早く起きて視力が良く無いままフラットニングの作業をしていたら一枚ゴミを挟んでダメにしてしまった。かなり注意深く作業をしているのだが、起きて姑くは注意力も散漫なのか。かなりショックだ。

昨日プリントしたネガのバリエーションが気になってそのイメージから取り掛かる。昨日伸ばした物とほぼ同じデータで比較的楽に仕上がった。こちらの方が良いかも知れない。一応予定していた氷のシリーズは終了し、これで次に進める。

しばらく続けて作業をしたのだが、自分のプリント技術がひどく低下していたのを感じる。質感を見極める事が出来ず、何度も印画紙のグレードを撰び直さなければならなかった。トーニングで濃度の上がってしまう独特のレンジについても上手く見極める事が出来ず、やり直さなければならない物がある。

様々な質感とコントラスト。この二つを相互にコントロールする事は本当に難しい。多くの被写体を手掛けているわけでは無いのだが、この狭い世界でさえ、乾いた時のゼラチンの感触がが予測できない。

ある写真について、プラチナとシルバーの両方のイメージを見比べる機会が時々ある。ある時はシルバーの方が貧弱に見え、ある時はプラチナの方に物足りなさを感じる。適格な方法や技術で手掛けられていれば、それぞれのイメージの良い所をつかみあげる事ができるのかも知れないが、被写体そのものの固有のイメージが深く関わっている事も事実だろう。

できる事ならば自分の手掛ける全ての被写体を美しく思い道理に仕上げたい。ゼラチンシルバーはその入り口に過ぎない。先日見て来たB、ウェストンの展覧会のキャプションの中で、「暗室でのプリント作業の中で技術だけで無く、表現について多くの物を得た」と言うようなコメントがあった。その言葉に救われる。


11/8 新しいネガを2点手掛ける。トーンのつかみにくい物なので結果は乾いてみないと分からない。夕方に青山迄打ち合わせに出掛け、渋谷で食料品を買って戻る。

今朝はなかなかやる気が起きず、始めたのが少し遅くなった。ここ姑くは氷をモチーフにしたネガを伸ばしているのだが、恐らく明日には一通り終了する。次は暗がりの中で撮った枯れ葉のシリーズを手掛ける予定。氷の白はとてもドライダウンがつかみにくい。同じように見えても、かかって来るパーセントが全然違う。

毎日気ままにノルマをきめずプリントしているのだが、こんな素敵な生活もそう長くは続かない。また忙しくなりそうだ。

先日友人と話していて、学生時代には焦りの中でもがいても何も創る事が出来無かったというような話を聞いた。自分の才能や能力が、自由な時間の中で、既存の美意識や創造物と始めて向かい合う。この中でもっとも恐ろしいのは自由な時間だろう。

私の場合はどうなのだろう。作品に自信や信念を持っていなかったわけでは無いが、今振り返ってみると直感や実積だけが自分をささえていたわけでは無いようにも感じる。何か理論的な物、現象学でも芸術論でも何でも良い、はったりやでまかせでも言葉に支えられた部分もあるのでは無いだろうか。

見えない物に立ち向かうには他人の力が必要と言う事なのだろうか?そして今でもそれはどこかで自分をささえているのだろうか?今日は酒を飲まずに寝る。無力で無能な時でも言葉があれば前に進めると言う事なのか?


11/7 午後からの作業。少し遡り気になっている作品をやり直す。もちろん今、完全な物を創ろうなどとは思っていないのだが、幾つかの方法を試してみたい。

結果は全滅。今は先に進むべき時で、昨日の事は考えてはいけない。新しいネガを進むべきだ。


11/6 昨日見たB、ウェストンの写真の事を思い出すが、黒の調子が最大濃度迄活かされてる事と対照的に白に関してはまったく関心が無かったかのように感じる。ブリリアントと言うような部分はほとんど見受けられない。学生時代に見た時にはもっとレンジが広かったように感じたのだが、、、

彼の写真に関心を持っていた頃、私には写真に関する友人が沢山いた。いろいろな人から彼の写真の事やハワイでの生活の話なども伝わって来た事を思い出す。私がその世界から離れてしまったのか、皆、他の人達がいなくなってしまったのかは分からないが、今の私にはブレットの写真について話す友人は1人もいない。

チグハグな展示を見ていると、彼もまた日本で孤立した存在なのだと少し思った。あれでは見ても良く分からない。

数年ぶりに千倉の南総庵と言う蕎麦屋に行った。海辺を走り疲れた気持を洗い流す。果てしなく遠い景色を久し振りに見る。

表現と、欲求。今は伝えたい物など何も無い。芸術も、幸福もただ受け入れるもの。伝える事などあり得なく感じる。少なくとも今日は。


11/5 作業を続ける予定だったが来週のスケジュールが変更になった事を受けて、税務署や区役所などに出掛けなければならない。昨日のプリントは今朝フラットニングを済ませたのだがまあまあと言った所。

出掛けた序でに気になっていた東京写真文化館のB、ウェストン展を見に行った。プリントそのものは見なれた物ばかりで、どちらかと言うとプリントの質があまり良く無いような気がするのは私だけだろうか?ともかく久しぶりに作品に触れたのは良い機会だったが、彼の作品の中でもその特徴をほんとに強く表している物が少なくて残念だ。650円の入場料はかなり高い。

11x14の大きなカメラ、パイロで黒く染まってしまった指先、80歳になって全てのネガを実際に燃やしてしまった話、、ワーゲンのバスで撮影に出掛けた事などなど。話の合間にちょっと皮肉っぽくアンセルアダムスの例え話しが入ったりして、世捨て人っぽい雰囲気がつきまとっている。

80年前後に、何度目だったかはわからないが来日する話があり、かなり期待を膨らませていたら体調不良で中止になった事があったと思ったが、思えばその後かなり長生きをした事になる。当時は未だエドワードのプリントもブレットの物が出回っていた頃だが、日本には彼の作品を理解する人は少なかったのかも知れない。

今回自分のポートフォリオを仕上げるにあたってどうしても見ておきたい作品だったが、何かがつかめる所迄は至らなかった。判然としないもやもやだけが残る。


11/4 久しぶりにスタジオに出かける。何日振りなのかはハッキリしないが、植木の鉢植えがかなり乾いている。ファックスでの打ち合わせや急ぎの請求書や見積り。何とか早く終わらせて自宅に戻ったのだが3時を過ぎている。

すぐにプリントに取り掛かろうと思ったのだが、気になっていた昨日のプリントを含めて今迄の分をフラットニングしてから作業に入る事にした。かなりの枚数でプリントに取り掛かったのは6時頃。久しぶりに明けがた迄作業を進める事となった。

今日、今迄の作品をやっとまとめて振り変える事が出来、新しいポートフォリオの方向がはっきりして来た。画面のバリエーションが豊富で面白い展覧会が出来そうだ。このシリーズのギャラリーは未だ決まって無いのだが、NYの個展の頃迄にはきめなければならない。写真の可能性を多角的に表現している。いろいろなモティーフを抽象的に見せる事で、時代を一気に1950年代以前迄遡りたい。

正統な懐古主義。写真に於いては、馬鹿げた事に思われがちだが、日本には丁度その辺りの写真に関する見識が全く無い。新即物主義から派生する様々な抽象的な写真表現は日本において図鑑的なリアリズムに分類されかねないのである。この国にそれを受け止めた人がほとんどいないのを、評論家の人達は全く知らないのだろうか。うわべだけでは無い。感じる事が大切なのだ。

殆どの作家は日本を去り、置き去りに去れたままいつかその光は消えてしまう。新しい物の中に未来があるとは限らない。ある意味この展覧会は日本においてしか意味を持たない。20年前に出来無かった事をどんな形であれ、済ませておかないと先に進めないような気がするのである。

最近のプリントを振り返る。その一枚が写真としての最高の美しさを持っていなければならないとすれば、殆どの物が未だ製作の途中である。しかし本当に美しい物もある。それは今迄見た事の無い美しさで自分の中で輝いている。もう一枚、少しづつだが作品を増やさなければならない。そして、少しづつ写真の美しさが伝わって行く。


11/3 なんだか今日の気分にあわないネガを撰んでしまった。イメージが湧かない。色々試して、何とか使えそうに仕上がっているのだけれど、この一点だけで何かが伝わってくるかと言えば今一つ。何処から見せれば良いのだろうか。

もう一点複雑な階調を持ったネガを伸ばす。これもダメだ。いろいろな階調がゴッチャになったモザイクのような物の集合体で全体のイメージはあるのだけれど、部分の見え方が何ともお粗末だ。これこそプラチナに向いている画面なのだろう。構成も分かりやすい。フラットニングすれば幾らか見栄えがするのだろうか。

この一点については後日紙を変えて試みよう。捨ててしまうには惜しいイメージだ。良い印画紙があるかも知れない。

何時も魔法の紙など無いのだと、できるだけ違う印画紙を使わないようにしている。選択肢を広げ過ぎると混乱してしまう事と、引き伸すサイズが変わった時必ずしも同じような紙が揃わない可能性があるからだ。

もちろん魅力的な紙は沢山ある。これから長い時間を掛けて最高の組み合わせを探して行こう。イルフォードではここが限界。現像液を変えてもどうにもならない。

不思議な事なのだが、天地を逆さにすると細かいテクスチャーが一気に冴えて来る。どの切り口で出口を見つければ良いのだろうか。だらだら続けているようでもいつかは全てを仕上げなければならない。なぜか今日は焦りを感じない。


11/2 昨日上手く仕上がらなかったネガをいろいろな現像液で試したのだがやはりそれ程印象的な作品に仕上げる事は出来なかった。やはりダメな物はダメなのか。

昨日まとめて作業をしたネガとは対照的にここ姑くの中で、もっとも気に入っているイメージに取り掛かる。2001年に撮った物の中でこれ程記憶に刻み込まれている物は無い。この年は当たり年で、続けて多くの作品を撮影した。その中で廃虚の物は2002年の個展で発表したが、自然物を対象にした物は、コンタクトを取ったきりしまわれていたのである。自分の中では画面の構成に新たな感覚を取り込んだ重要な時期であったと思っている。

廃虚の奥深く、階段の下に出来た大きな水たまり。その中の氷がモチーフである。光はほとんど差し込まず、僅かなリフレクションの中で真上から被写体を捕らえて行く。不安定なカメラに気を使いながら同じ被写体に3カット、その場所でその時はそれだけの収穫だったと思う。意味深い数日間だ。

それから数年経つがこのネガの事を忘れた事は一度も無い。更にその記憶を頼りにかなり沢山の他の作品を撮った。

ある時今死ぬとしたら何か思い残す事があるのかと聞かれて、未だ引き伸していないネガがある、と言ったのも、このネガの事である。その時は随分笑われたが今思えばそれも納得。これを見ずに死ぬ事は出来ない。

この作品は本当にすばらしい物だ。未だ完全なイメージに仕上げた訳では無いのだが、今迄手を着けなかった事も心から納得できる。何度もプリントしようと思ったのだが、もしこの作品に挫折したらその後の撮影が出来ないのではと言う不安が作業を妨げていた事を恥ずかしく思いだす。

と、ここ迄書いていたら急に気持が冷めて来てしまった。たいがいは欠点から作品を見ているので、何時に無く強く引き付けられると止める事が出来ない。あすにはまた欠点しか見えなくなるのだろうか。

先の見えないジレンマやその日一日の浪費が憂鬱な気持を締め付けて行く。撮影とは違った自分だけの世界についイライラしてしまう事が殆どだ。自分をささえているのは技術では無く感性だ。その一枚に対する愛情を感じる一日だ。

人間に対する愛情はどうなのだろう、心の奥にしまってあるネガを何時か人はプリントするのだろうか。


11/1 あまり期待していないネガをまとめて処理する一日。4点程を予定したいたが、やはり時間はかかる。最後の一点はテストを乾燥した後明日もう一度トライする事にする。

期待していないネガと言うのがどう言う物なのかは自分でもハッキリしないのだが、あまり強い印象を感じていない物、ビジュアリゼーションが今一でそれ程期待の持てないものとかで、撮影した時にはそれなりにイメージを高ぶらせて撮った記憶はあるのだが、明らかにネガには違うイメージしか写っていない物なども含まれる。

もちろん悩んだ末に取りあえず撮ったと言うような物もあり、幾らか時間が経つとネガを見ただけではイメージが湧かず、長らくトリミングなどを検討した末にプリントしてみるような物さえある。

この3カットの為に100枚の印画紙を費やして、取りあえず30枚程を乾燥した。ある意味最近で最もハードな一日である。これを浪費と考えれば作業は進まないのだが、毎日数万円の経費は精神的にも可なりの負担になる。

働いて、稼いでは使う事の繰り返しだが、その中で今迄の作品も生まれて来たと思う。犠牲ははかり知れない。

未だ先は見えてこない。新しいモチーフに向う時、いつもこのような長い時間と浪費があったと言う記憶が私を支えているのか?一つでも新しいモチーフを自分の物にしたい。この犠牲があるからこそ、誰にも近寄れない世界なのか?


10/31 昨日迄のプリントのフラットニングに取り掛かる。午前中一杯は余裕でかかり、昼を過ぎた頃近くの店で昼食にマーボー豆腐丼を食べる。想像していたよりもこってりで四川風と言うよりは町のラーメン屋の風味である。少し残してしまった。

数日間に及ぶプリントは結構な枚数があり、フラットニングした物を並べてみているだけで結構な時間がかかる。調子の再現性に就いて色々考えたり、イメージそのものに就いて考え直したりで、姑くは自分と向かい合うだけの沈黙の時間を過ごしてしまった。

仕上げた作品と言っても5、6点なのだが、創作と言う意味に於いては可なりの重みを持っている。このままで使える物は以外と少ないように感じる。今仕上がっているイメージはあまりにナチュラルだ。岩は岩で氷は氷。木は木のままでしか無い。本来はそれでも良いのだが、それを超えて画像全体でつたえなければならないイメージが、そのリアルな印象にさまたげられているように感じる。

これに関しては慣れと言うか、そのプリントを見極める力と、生かす方向を定める経験の為せる技なので、未だ姑くは試行錯誤を続けなければならない。

自然物を仕上げるのは本当に難しい。ある意味見なれた被写体がそこにはある。撮影の時は明らかにそれを乗り越えて別の世界を見ているのだが、ネガの質感にさまたげられて記憶の中のイメージ迄なかなか辿り着けない。

プリントが美しく無いわけでは無い。あの時の感動が、力が、蘇らないのだ。

少し空いている時間に、昨日問い合わせの合った2浴現像に就いて調べてみた。手許の資料には当時試したアルカリ浴を併用する物しか無かったのだが笹井さんの書いている古い資料の中で、臭可カリウムの高濃度の液体にしばらく浸けた後現像する方法が記されていてかなり興味深い物を感じた。10倍近い露光を必要とする事などが記されており、ある意味ソラリゼーションも併用できるわけだから結果に関しては容易には想像できない範疇にある。必要性はともかくとして、私の中ではこちらの方が発見である。

前記の2欲現像だが最近アマチュアの間ではかなり流行っているようだ。ラティチュード広げ、ハイライトやシャドーのディティールを自然に再現してくれる事が理由らしい。その美意識はとても重要な物で、写真の再現性を極める上で最初に感じる部分ではないかと思う。再現されていない領域に関心を持つ事こそが、感性の高揚に他なら無い。

今はインターネットなどですぐに調べられるので本当に便利になった。


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