5月 4月
作者近況 9月 8月 7月 6月 3月 2月 1月03年

10/31 昨日のイメージカットに続き、今日からは商品の撮影を始める。クライアントの担当者は2人なのだけれど、一人の女性の方は以前勤めていた会社の頃からの知り合いなので、比較的コミュニケーションが取りやすい。デジタルも含めて約30カット、可能な限り、撮り続け残った物は週明けにまわす。細かい作業の連続なのでアシスタントは使わなかったのだが、流石に夜遅くなってくると疲れで効率が悪くなって来る。終電ギリギリで今夜は切り上げ、残りは4日に再開する事で、ひとまず終了する。

少し片付けて現像所迄車で出かけ明日の早い仕上がりになるようにポストに預けて来る。デジカメのデータをチェックし終ったのが3時頃。明日は早めに本番の指示を出すので、あまり眠れない。

商品カットのデジタルはさすがにそのまま使える訳ではないので、RAwデータを調整し現像処理をする。明日はデスクワークなので幾らかは楽かも知れない。


10/30 アシスタントと8時に待ち合わせてスタジオへ。9時ぐらいから他のスタッフやモデルも入りはじめる。今日はヘアーメイクも2人いるので中々撮影の方が追い付かない。デジカメのデータを転送する時間も、次がスタンバイして待っている状態なので、やはりデジカメのオペレーターは必要だったかも知れない。

休みなく取り続け、最後のカットは9時過ぎに終了。それほど時間を押す事もなく、取りあえずはほっとする。片付けや明日の準備を終えてスタジオを出たのは12時頃、全てのカットを整理して保存し終わったのは3時前になってしまった。明日からは商品カットの撮影が始まるので酒も飲まずにすぐに横になる。


10/29 朝早くからスタジオに向い昨日のフィルムを現像所に出す。かなり撮影が立て込んで来るので、あまり現像を遅らせると納品の時間がなくなってしまう。一日中時間に終われながら、レンタルの機材を取りに行ったり、足りない物を買いに行ったり夕方迄は本当に息を就く暇がなくスケジュールをこなして行く。

夜になって先週連絡の在った、個展を12月に控えた若い写真家に会い、作品を見る事になっていたのだが、かなり大きなプリントなので取りあえずスタジオで見せてもらう事にした。彼の作品はモチーフがコンクリートで、プリントのサイズによって印象が大きく左右される。ネガも見せてもらったのだが、ロールフィルムと同じタイプの現像能力の比較的弱い処理液で長時間現像された物で、濃度域の狭い部分に完全におさまっており、一つのスタイルとして完成されている。どのモチーフにどのプロセスと言う特定のセオリーを持たない私だからかも知れないが、これはこれで中々完成されたシステムで私自身も何度か試みた事が在り、彼のなかではそれなりに結果をあげているように思う。

色々考えてみたのだが直接今、どのような事が必要かと言ったアドバイスはできるのだが、彼の作品へのスタンスに就いてははっきりした助言が思い付かない。

夜遅くなって色々と考えをまとめて見るとその現像方法にはいくつかの陥りやすい問題点も在る。勿論現像単独ではなくシステム全体の事では在るのだが、全ての被写体を一様に一つのスタイルに仕上げるそのトーンは被写体のローカルなコントラストを変える事が絶対的にできないのである。ロールフィルムの場合、殆どのプリントはかなりの拡大率で行われる為、それほどイメージに変化が起きる事はないのだが、シートフィルムの場合では、拡大率が低い為、ほとんど特定の質感で均一に表現され、勿論それそのものを作風だと解釈してしまえば良いのだが、たとえ現像時間を変えたとしてもネガの質的なモチーフとの関係を変化させる事ができないのである。

単純に言えばより広い範囲の被写体をモチーフに選べなかったり、輝度差の変化を現像時間のみではコントロールできないのではないかと思われる。それぞれのモチーフに、それぞれのネガ、そのような考え方が自分の場合、色々な方法を模索し、新しいモチーフを開拓するきっかけになって来たように思えるのである。


10/28 昨日に引き続き、スタジオでイメージの撮影。今日は立ち会いが一人増えたので、幾らかは賑やかに作業をすすめる。昼食は近くの蕎麦屋で済ませ、雨の中出かけたついでに小道具の野菜を買いに行く。順調に進んだ撮影だったが、やはりカット数が多いので終了したの9時頃で、その後先日のブライダルのカメラマンと結婚式のの写真をチェックする。どの写真もすばらしく、何よりも写真から細やかな心遣いが感じられる、本当に彼女を紹介したのは正解だったと思う。

明日は午前中から撮影の準備で忙しいので、かなり徹底的にスタジオを片付ける。木曜の撮影はスタッフが多くモデルも含めて10人位の予定なので、コップや椅子など、必要な物は今日のうちにチェックしておかなければならない。結局スタジオを出たのは3時過ぎ、明日は現像所が早いのであまり眠る時間がない。


10/27 朝早く歯医者に行った後、沢山の荷物を抱えた担当者と駅で待ち合わせ、花屋に寄ってスタジオに向う。途中彼女の好みの古臭い洋食店「パンチ」で昼食を取り1日5食限定「特性ビーフシチュー」食べている姿を見ているとなんだか気持ちが和んで来るのを感じる。

担当の彼女の趣味もそうなのだが、この店は時間がとまったように、昭和の空気に包まれている。ちょっと弾けた「パンチ」のロゴや電話番号の入っているお皿でミックスフライなどを食べていると、20年前と何も変わらぬ世界が、トビラの外には存在しているのではないかと言う錯角に襲われる。そう考えて見ると世の中から確実に昭和は消えて行きつつある。都会はその速度を加速しているのかも知れないが、ここの店に当たり前のように置いてある、黒い電話器もかなり久しぶりに見た様な気がする。

カメラと言う物もこの電話器のように懐かしい昭和の産物でいつかは少しずつ消えて行くのだろうなどと考えていると、この店が一層愛おしく思われて行く。午後からはスタジオに入り古臭いカメラで撮影をこなし、そこそこ遅い時間になってやっと自宅に戻る。

家に戻って見ると、先日の結婚式の写真を明日迄に出力しなければならないのだが、プリンターのドライバが調子が悪い。デジカメのデータなので、Macで出力しなければならないのだが、ここのところPCばかり使っていたので、なにかの配線にも不都合があるようで、復旧して出力するのに2時過ぎ迄かかってしまった。新しい平成の世界は写真のなかでは未だ遠いのだろうか?


10/26 朝早くから部屋の片付けを始める。昨日自宅の下水管の交換工事がほぼ終了し、3ヶ月振りに部屋のキッチンやトイレなどの水廻りの部屋に壁紙が張られた。昨日は外出していた為工事に立ち会う事はできず、代わりにマンションのオーナーに立ち会いをお願いする事になった。

何度にも渉る台所の工事で、幾らか慣れて来たとは言え、台所のもの全てを居間に移してまた元通りにすのは大変な作業で、夜明けと供に掃除や片付けを始め、台所、風呂場、トイレの全てが元道理になった時にはくたくたになってしまった。築40年になるこのマンションは至る所が老朽化しており、頻繁に漏水や停電などの不具合が発生する。その都度少しづつ改修はされているのだが、中々追い付いて行かないと言った感じである。今回の下水の工事は4月から続いており、共有部分や地下など全ての壁の中の下水管を交換する為、未だ姑くは工事が続いて落ち着かない。

しかし悪い所ばかりがある訳ではない。当時としては最先端の建物だった為、遮音性もよく100世帯をこえる建物なのだが、廊下の広さ、住み込みの管理人室、趣のある階段の手すりなど、自分としては気に入っている部分も多い。借りている分には気楽な物なのだが、所有するとなると、はかり知れないストレスがあるのだろうと考えさせられてしまう。


10/25 朝早くから横浜に向い、知人の結婚式を撮影する。結婚式を撮る事など15年以上なかった事なので、自分で頼まれた物の、結局は知り合いのブライダル専門のカメラマンを紹介し、私が撮影するのほんのおまけ程度という事なのだが、なれない事なのでかなり緊張してしまう。

ブライダル専門のカメラマンの人達にはそれなりに天職と言う物があり、きっと人々の幸せに立ち会う事に喜びを感じている人達なのだろうと思う。私はと言えば、最も苦手な場所のように感じているのに気が付いた。

結婚式とは直接関係ないのかも知れないが、記録としての写真には全く興味が湧いてこない。何故だか解らないのだが現実の表面の複製と言うような感じがして、現実への感心が、撮影する事をなにか無意味な物に感じさせるのである。カメラマンがこんな事を言うのは変なのかも知れないが、料理は食べてこそ料理とでも言ったところなのかもしれない、、、


10/24 朝になってから少し仮眠を取り、九州より上京した知人の案内で東松山から少し離れた所にあるにある、古い民家を改造したギャラリーカフェに出向く。

昨日かなり予定を終わらせたので少し落ち着いた気分で時間を過ごす事が出来たのもあるのだが、都会的なセンスを緩やかに体現した様な、地味なたたずまいは嫌味な所もなく、落ち着いた時間を過ごすには中々良い店だ。「山猫軒」というネーミングと、サイトの印象からもう少し子供じみたセンスを創造していたので、より一層ほっとした気分になる。

築100年をこえる民家のたたずまいはそれほど誇張される事もなく、土間の部分をそのままカフェに改造したようで気取った所も感じない。一体一日に何件の客が来るのかは分からないがまあ、それなりにのんびり暮らしているような落ち着いた暮らし振りが感じられる。立地的には今一つ。都会の日陰とでも言うような、輝きを感じない場所にあるのだが、きっとそれぞれに四季はあり、そのつど出向いて来る常連客も多い事だろうと思う。近くにはそこそこ有名な温泉やゴルフ場もあるようだから、金、土、日と言う営業日は、結果的によく考えられての事だろう。

日が傾き始めた頃、少し冷えて来た山間の店を後にする。確かにそこには田舎があり、古い民家もある。しかし感覚としてこの都会と何が違うのかが今一つ解らない。何組かの客が来てそして、帰って行く。なにか物がレトロに見えるフィルターをかけただけの様で、考え続けると物悲しくなって行く。自分が暮らしたい場所は一体どこなのだろう、どこに行けば気が休まるのだろうか。三河湾の小さな島の事がさらに大きな存在となって頭の中に浮かんでいる。


10/23 撮影が一件延期になった為少し余裕のある一日を過ごす。週末に忙しいスケジュールを控えているのでできるだけ予定を先送りし、納品や返却、小道具の準備などを結局慌ただしくこなす一日となった。

夜になって進めたスキャニングは結構捗り、夜明け前にカラーモノクロ共に、今回予定していた物を全て終了する。


10/22 午前中から撮影。スタッフが来るのは10時なのだが、片付けができていないので9時頃からスタジオに入る。今日の担当者は、名古屋の出身の方だったので、生活週間の違いなど興味深い話を聞きながら、一日中商品撮影をこなし、10時前に帰宅。

昨日に引き続きカラーのスキャニングを進める。かなり捗って来たのだが作業を進めるうちに色々な問題が生じて来た。フィルムの中には何枚かはコダクロームの物が含まれており、一点だけノイズが入ってどうしてもスキャンできない物がある。良くあるスキャニングのCCDのノイズではなく、データ転送のノイズでスキャン方向に垂直に縞状に発生し、どうしても消す事ができない。ある一部のエリアにデータが集中していると起こりやすいのだが、35ミリ用のポラスキャン4000では初めての事だ。

スキャナーのノイズには随分悩まされて来た。現在使用中のアグファのT2500もネガを読み込んだ時にハイライトのノイズが目立ち、2度程キャリッジごと交換し、幾らかノイズの少ない個体を選んで使っている。100万円以上するスキャナーでもそのような状態なのだから、35ミリ用のスキャナーなどは、いくらダイナミックレンジを歌っていても、全ての状況に対応できる訳ではないのだろう。

この写真をポートフォリオに加えるかどうかはまた別の問題という事だが、ここのところ信頼していたスキャナーの問題点を久し振りに思い起こす事になった。

カラーのスキャニングは一時中断し、モノクロの新作を終わらせる。かなり寝不足で作業にミスが多い。


10/21 幾らか良く眠れたせいで早く起き、午前中はモノクロのスキャニングを何枚かこなしてから仕事に出かける。撮影そのものはたいしたカットではないのだが、急ぎの見積もりと、昨日の続きのオーディションが夜から入っているので、何となく時間に追われている。オーディションが終わってから一旦自宅に戻り、見積もりの仕上げに再びスタジオに出かける。

昨夜の続きのカラーのスキャニングを夜中になってから再開する。昨日仕上げた分と合わせて12点、後2,3日は未だかかりそうな感じである。ここのところ酒を飲まないので夜中の作業はかなりはかどっている。毎日朝が早いのだが、起きるのに苦痛を感じない。酒を飲まずに機械的な作業をしていると、何故だか自分に対してはは優しい気持ちになって来る。少しずつ遅れを取り戻している実感があるからか?一方他人に対しては限り無く無関心になって行く。この世界との接点に私にはきっと酒が必要なのだろう。しかし飲んでばかりでは仕方がない。今必要なのは眠る事ではないのかも知れない。眠る事が私を追い詰めているのか?

モノクロの新作も何点かスキャニングし始めた。この作品に関する解釈は取りあえずまとめあがってから考えるのが良いようだ。


10/20 午前中に歯医者。夕方迄打ち合わせや雑用に追われる。夕方からはクライアントの本社でモデルのオーディション、結構な人数で何時になく疲れる。9時を過ぎて一度帰宅したのだが、打ち合わせのために再びスタジオに向う。

創作に就いていつも一人で向かい合っている事に就いて考える。色々な団体やグループに属する事もなく、近年は個展も自分で決めた画廊を借り切って一人でやっている。それこそが自分のスタンスなのだけれども、少しずつそのスタンスを変えて行かなければならない。自立した作家として活動する事はあまりにも色々な負担が大きすぎる。

一日も早く本当に自分を支えられる作品を作らなければならないのだが、自分と向かい合ってばかりではだんだん気力が褪せて行く。どうすればバランスを保って作品を作り続ける事ができるのだろうか。


10/19 昨夜急に恐ろしい睡魔に襲われて11時頃一旦眠ってしまった。夜中に何度も目がさめて長い夢を沢山見た。その中の一つでは私は20歳位の学生でマンションの最上階に下宿して下の町並みを時々眺めている。骨董の店では皿を不注意で何枚も壊し店員に細かい見積もりの弁償を迫られていた。

いくつかの夢の中の断片的なシーンの余韻の中で少し午前中の時間を過ごした。昼前になってコンピューターとモバイルの設定の為にAUに出かける。電話本体のファームアップに出かけたのだが、店員の知識不足で3回も足を運ばなければならず流石に少しうんざりさせられたが、おかげでかなりモバイル通信に詳しくなったような気がする。

HPの資料をネットで調べていて偶然昆虫写真家の海野さんのサイトを見つける。超広角レンズによる昆虫の超接写撮影で知られた人だが、そのきっかけに就いて本人のコメントがあった。それは彼が非常に好きだと言う蝶の写真に就いての話だったのだが、彼の意識の中の蝶は周りの空間と供に存在していると言うのである。ところが写真に撮ってしまうと背景と切り離されなんともつまらない写真になってしまい、それを克服するために少しずつレンズを工夫して、今のような昆虫の目線で見たような、ある意味なんともリアルな世界を可能にしてしまったと言う事らしい。奇を衒った物でもなんでもなくて彼の感性が結実した物だと言う事が、すばらしい話に感じられた。

自分の感性の中に見る物が、どうしても形にならないもどかしさがいつも付きまとう。それは光り対してであり、また、フォルムに対してでもある。光の問題と取り組むために、最初は基本的なゾーンシステムによるビジュアリゼーションを身に付けた。そして、生理的な感性のように明部と、暗部の特性曲線を別々に組み合わせ、より自分の体感的なビジョンを少しずつ作り始めている。マスキングやフラッシングなどレタッチのような部分的な調整も感性そのものが生み出す物だと考えている。

しかしフォルムの問題はどうなのだろうか、レンズを換え、視点を探りながらどんなに被写体を見続けても、未だに理由の分からない不一致が幾らも存在する。自分の作品が比較的幼稚な構成が多いのもこの問題が克服できないからなのだろうと作品を見ながら考える。構成が幼稚であっても、光そのものの表現で私の感性は存在している場合が結構ある。何故フォルムは取り込めないのだろうか、光がそうであるように、色々な物が別々に把握されているのだろうか、絵画ではない写真のもどかしさは、E.ウェストンの作品のように何時になったら私の中で魅力へと変化するのだろうか。


10/18 朝少し雨が降った。早く起きてシーツを洗濯し霧雨の降るベランダに干してみる。午後からは暗室の中で資料を探しはじめる。スキャニングを始めるつもりだったのだが地面に引きずられるように気が重く、体も動かない。

10/17 昨日かなり無理をして全ての仕事を終わらせた事で、一日自由に使えるようになった。

久しぶりに平日に休みをとってみようかと思い、昼前迄ベッドの中で過ごす。昨日の疲れで体は重く一時を過ぎた頃やっと外出する気分になり、車のカギを持って出かける。

久しぶりに海を見に行こうと、車を出したのだが、外国の要人の来日が絡んでいたらしく全ての道が恐ろしく混んでいる。渋滞の中で時間を取られ、いつものペースで高速を走れるようになったのは、3時を過ぎた頃だった。長い渋滞の中で車の調子も悪くなり、とにかく走れる道を辿り九十九里に向う。

羽田から一時間、千葉の海は少し風が強かった。波乗り道路を180キロで走る。高校の時に読んだ三島の小説に時速180キロで走る車の話があった。それが何の小説だったかがおぼろげで思い出せない。

夕日の中で砂の流れる海岸を歩く。日が暮れる頃、車の幌を下ろすと、急に世界は真っ暗になり牢屋の中から外を見ているような気持ちになった。ここ姑くは真剣に被写体と向かい合った記憶がない。明日からは何とかスキャニングを始めるつもりだが気持ちの中は未だスッキリしない。


10/16 昨日の撮影のテストをチェックして本番の指示を出す。午前中は片付けや電話に追われ、午後からは打ち合わせや返却。渋谷の現像所に寄って本番のフィルムの仕上がりを待って納品に向う。一日中多くの距離を歩き、夜になって帰宅した時は足のももが痛くなっていた。

昨日感じたストレスの原因に付いて、長い時間歩きながら考えた。想像と創造、消費と浪費、自分に最も必要な事は微妙なバランスの中にある。何日も収入にならない事ばかりを続けているとどんどん自分を追い詰める気持ちは強くなって行く。多くの人は学生の頃は自由に創造し、楽しかった事をよく話すが、自分にとっては必ずしも精神的に完全に自由だったとは思えない。両親の懐疑的な視線の中で、自分を追い詰めていかに総合的な意味で価値のある物を作るかが、成果あがらない創作に重くのしかかっていた気がする。

学生の生活は期限が決まっておりいつかは終わりがやって来る。今の自分はずるずるとバイトをしながらその期限をむやみに延ばしている、ぱっとしない画学生のような物なのかも知れない。

自分の評価はどこにあるのだろうか、どうすればこの生活に終わりが来るのだろうか?


10/15 朝から一日中本格的に物撮りをする。細かい作業の連続する神経質な撮影だったので、アシスタントは使わず全てを一人でこなす事にした。そこそこ多めのカットではあったのだが、特に問題になる事もなく順調に進み10時前には全て終了し、スタッフが帰った後片付けを済ませ、11時頃に帰宅する。

体力的には結構疲れてしまった感じはあるのだが、心理的には少しの苦痛も感じない。自分にとってストレスの起源はいったいどこにあるのかを少し考えるきっかけになったような気がした。

自分を不安や焦躁に追い詰めている物はなんなのか、今この時に自分を支えている物はなんなのかをどうしても直感的に把握できない。何がその妨げになっているかを考えようとするのだが空回りして先に進めない。

深夜になって先日からのポジを見直し、モノクロのプリントをチェックする。カラーの作品の質の低さは隠せない。その恐怖と生活への不安から、またしても二足のわらじとも言える新規事業を始めようとしている自分を止められる物は何もないのだろうか?今の自分にとって最も重要な事はモノクロの作品を仕上げる事なのは分かっているのだが、どうしても作業を進める気持ちにならないのである。資金が底を尽き時間がなくなればなくなる程、評価を得られそうな物を頭の中で考えて、どんどん身動きがとれなくなって行く自分にどうやって歯止めをかけて良いのだろうか。

今の自分には手掛けている物の欠点ばかりが見えてしまう。味方のいない世界にいるようで、息が詰まりそうなのだが、無能な人間に、デタラメに誉められる事は苛立った気持ちを逆なでされるようでさらにたえられない感じがする。

以前プリントに行き詰まった時に、MOPAで開かれたWバロックの展覧会を見た。Izu.Kenroのプラチナプリントを始めてみた時もそうだったのだが、何かの力と支えが生まれて来るのを実感し、本当に支えられている気持ちになった事を思い出す。

勿論それらの作家の全ての作品がすばらしい訳ではない。その中の一点でも良いのである。最高の物が存在すればそれこそが彼等の存在の全てである。


10/14 午前中歯医者に行った。先週空いている時間に一度見てもらったのだが特に虫歯はない様なのだが、歯石を取ってもらったり、以前に治療してあったところなどを統べてみてもらうために何度か通う事にした。就職が決まった頃、全ての虫歯を直して以来、10年以上、歯医者に通う事などできなかった。独立してから空いている時間に、やっと虫歯の治療に行けた時はとても嬉しかった記憶がある。

ほったらかしの10年以上の間に殆どの歯は虫歯になり、治療を受け始めてからは、通わずに済む時がないような状態だった。ここ姑くは虫歯を気にする事もなく過ごしているのだが、以前の影響で健康な歯がほとんど残っていないので、できるだけ空いている時間には見てもらうようにしているのである。今後都会を離れて暮らす事を考えると今できる事は、できるだけやっておくにこした事はない。自分の体の為に何かができる事は意外な意味で幸福なのかも知れない。

午前中のロスタイムのせいで意外につまった一日になってしまったが、横浜のニコンのサービスに、修理に出していたレンズを引き取りに行って来た。この横浜のサービスも今年一杯でなくなるようで、全ての世界でリストラされた人がどこかにうづまいているのだろうと思うと、やるせない気持ちになってしまう。今日も現像所の仕上がりが遅れて、夜の納品を後日に調整しなければならなくなってしまったが、これも、今年になってから現像所が半分の数に統合されてからの出来事である。

夜になって、写真家の中島さんの展覧会のオープニングパーティーに出かけた。積極的なワークショップなどで知られている人だけに、会場は入る事のできない程の混みようで、作品を見るのもやっとの状態だったのだが、久しぶりに安心して見れるプリントに幾らかほっとして慰められたような気持ちになった。氏のプリントと比べると私の写真はかなり特殊なプリントと考えても良いと思うのだが、会場で以前Wバロックと親交の深かった細江氏の話を聞いていると、彼に対する信頼の深さが感じられ、仕事そのものの奥行きの深さに感心させられたりもする。細江氏に紹介していただいて幾らか話をさせていただいたのだが、Wバロックの事を聞くような場でもないので余り話す事もなく過ごしてしまったのを後になって少し残念な気持ちになった。

写真に就いて多くの人がなにかの答えを探している事は確かだと思う。私の中でWバロックに就いての考えは未だ結論を見つける事はできないのだが、彼の考えた4次元の世界と言う物は私のビジョンの中にも明らかに生きている気がするのである。 


10/13 昨日途中で投げ出してしまったポジのセレクトをもう一度一からやり直す。自分の表現できる個性に就いて、長い時間をかけて向い合う事が必要なのだと、何とか気分をなだめてみるのだが、暗室の壁にかけてあるモノクロのプリントとは比べるよしもない。一点一点の個性は重要なのだが写真集ではないのだから、独立した表現としての完成度も求められる。何度も見ているうちに全ての作品がつまらなく当たり前な物に見えて来てしまう。

夕方になって気分は煮え切らないのだが、なんとか16点ずつ2つの組み合わせを選び直し、また少し時間を開けてみる事にした。この後は気分はどうあろうととにかくスキャニングを済ませ、その機械的な作業の間は何も考えない事が良いのかも知れない。

以前印刷したカラーのポストカードは28点。そのうちの半分程は色々なイメージに使われる事となり、カレンダーのプレゼンなどでも随分役にたった。印刷やデザインの経費だけを考えればもとは十分とったのかも知れないし、これほど広報に役にたった資料はなかったと思う。プリントを販売するレベルでのモノクロのプリントと違って、より多くの媒体に広い範囲で個性は伝わって行くのだが、そのどこ迄が自分の本質なのか今また考えはじめるときりがない。

活動そのものは色々な形でバランスを取らなければならない。資金の調達は今にしても全く進まないので、広告の仕事も幾らかは続けているのが現状だ。モノクロのプリントを進め、次の個展を早く実現させる事が第一に重要なのだが、今の自分にはあまりにも手掛けなければならない事が多すぎる。

かなり気がめいってイライラしていた時に、来月銀座で個展を開く若い作家からのアドバイスを求める電話があった。自分にどれほどのアドバイスができるのかは分からないが、できるだけ力になりたいと思う。

作品は大きな意志であり、必ず継続して行くのだと思う。どこかで誰かがもっとすばらしい物を作っているかも知れないと思うと何故だか希望が湧くのである。


10/12 昨日の深酒は体力的にかなりのダメージを与えたようで、二日酔いと言うのではないのだけれども体中が痛く、体が重くて動かない。やっと昼頃に起き上がりMacに向うのだが写真を見ていても意識が集中せずスキャニングなどどうしても始める気持ちになれない。

ここの所あまりに多くの事を手掛けていて少しづつ全てが不完全な形になっている事へのストレスもあるのだろうか、ポジを見ていても最初から全部やり直してみたい気持ちになってしまったりする。

結局写真を選び直すつもりで全てのフィルムに目をとおすのだが、見えて来るのは自分の無力さばかり。


10/11 夕方迄PCで仕事、7時前の待ち合わせで銀座迄展覧会に出かける。グラフィックデザイナーやイラストレーターなど100人が統一されたテーマを、独自の方法で表現する展覧会で、地球や環境に関するテーマが一つの「母星愛」と言う言葉で集約されている。

テーマに関する解釈は様々だがやはり目に付くのはイラストレーターの作品で、グラフィックデザイナーは似通った感じに受け取られやすく個性が中々発揮できない。今回は写真による参加は極僅かだったのだが、デザインの要素無しで表現するにはかなりの力量が必要になるのだろうと思う。

イラストの力と言う物には何時も感心させられるのだが、どんな表現の難しいテーマでも、自分の世界に引き寄せてなんとも個性的な表現に仕上げて行くのである。またそれができるかどうかが力量の試される所でもあるのだろう。書籍の表紙など殆どがイラストで作られているのも自然に納得できる。

会場の地下にあるビアホールで主催や企画を担当している人達を交えて久しぶりに旨いビールを飲む。やはりビアホールのビールは全く別の物のようだ。初対面の巨匠と思しきデザイナーは85歳との事、さらにもう一件すずらん通りの方に場所を変えてかなり旨いワインを飲む。自宅に戻りながらもう少し飲もうと言う事で、結局自宅で明るくなる迄酒を飲み中々ハードな一日となる。


10/10 先日選び始めたカラーの作品を今日は本格的に絞り込み、セレクトを繰り返す。昨日撮影したフィルムの事や、先週から迫っていた納品など、他にも沢山の仕事がつまっているのだが、取りあえず他はさておいてこの件だけは進めなければ気がおさまらない。仕事の事は週が開ける迄誰も文句は言わないだろうし、週が開けてから考えても適当な言い訳は幾らでも思い付きそうである。

今回は写真集ではなくてポストカードのつもりなのだが、いずれは前回の物と一緒に、小さな写真集に仕上げる事も考えている。先日作品を選考していた時に、未だ整理されていなかった今年撮影のフィルムも今日は全てマウントし、一点ずつ慎重に選んで行く事ができる。今の所チェックされているポジは40点。その中から24点から32点の範囲で二つのグループの作品に選んで行かなければならない。作品を選ぶ事自体はとても楽しい作業なのだが、一日ビュワーを見ている事はとても目が疲れる。途中休憩をかねて、他の作品のフラットニングを進める。

夜になって近所で飲む誘いがあり、遅い時間にやっと家を出る。2時を過ぎて帰宅し、再びポジを選びはじめるのだが、見る度に全ての価値観が変わっているのは何故だろう?


10/9 差し迫ったスケジュールは昨日打ち合わせを済ませた月刊誌のレギュラーページだけだったので、午前中は先日からのデジカメの改造に時間を注ぎ、午後からは今年最後となった連載の撮影を始める。撮影に就いて全てを任されて見ると、物を見る視点と言う事に就いて色々と新しい発見がある。勿論これはレベルの問題で、カメラマンと普通の人、また、プロとアマでは違うように、結局は経験と感性で段階的に変化する物だとは思うのだが、自分の中でさえ、撮る前と撮った後では、経験によって物の見方が変わって行くのを感じる。

それはその物に対する潜在的な概念や、個人的な思い入れに粉飾されておこる物なのかも知れないが、解りやすい例として、大きさの感覚などは、いざ写真に撮って見ると、単独での表現の中では全く尺度を失ってしまうので、大きいとか、小さいとか、そう言った相対的な感覚は呆気無く喪失してしまい、例えば「大きいカボチャを撮った」と言う感覚は全く意味を失い、写っているのはただのカボチャになってしまうのである。

これは簡単な例なのだが、ここで解決策として、大きさの違うカボチャを一緒に撮影するとか、比較の対象になるサンプルを画面に添えるとか、そのような考え方ではなく、ただその物だけの中でその表現を完結させる事の必要性こそが、カメラマンに与えられた課題のように感じるのである。

この例のように単純な場合であれば、それ程気を揉む事もないのだが、この尺度が実際は様々で、手触りであるとか、重さであるとか、どうにも表現できないような形のプロポーションであったりする物だから撮って見て初めて気付くのも仕方がない話で、その中で少しづつ写真的な物の見方と言う物も、少なからず学習し変化して行く物だと思うのである。

スタジオでの表現の要、恐らくはフォルムと光に他なら無いと思うのだが、受け止める側の感性にも、悲しい事ではあるのだが、恐ろしい程のレベルの差が存在する事も事実である。


10/8 昼前に月刊誌の打ち合わせに出かけ、12月号までで連載の終了を知らされる。一年のサイクルの中で、できる事はわずかなのだが、自分の世界に引き寄せた表現ができる前に終わってしまって、少し物足りない感じはぬぐい去れない。年内に終了するレギュラーはこれを含めて3本、来年はまた別の世界で新しい展開を考えて行きたい。

広告の仕事と違い、エディトリアルの分野で多くの仕事を進めるようになり、考え始めた事がいくつかある。自分の考え方次第だと言ってしまえばそれまでなのだが、20年以上広告の世界だけで仕事をして来た頃は、一つの撮影が終わり、カタログなりポスターなり、色々な媒体は形になって残っていくのだが、それらはあく迄媒体であり、自分にとっては写真と言う観点を超えたつながりは何も残らない。例えば代理店とギャランティーの関係以上には自分の中に、何も蓄積されて行かない感じがするのである。勿論技術的に多くの課題をクリアーし、レベルはあがって行くのだが、恐らくこの仕事を止めてしまえば、何も後に残る物は存在しないような気がしてならない。

勿論広告だからと言う事でなく自分の場合、たまたま仕事へのスタンスがそう言う形でしか生かし切れていないと言う事なのだが、例えば、他のアーティストの作品を撮影するとか、作品ではないとしても、所有している思い入れのある物を撮影する場合など、その被写体への接し方が、撮影を依頼した人間との直接の関係になって作品と供に存続して行くような気がするのである。

これは写真館でポートレイトを撮っているカメラマンとかには日常的な事なのかも知れないが、我々のように普通にスタジオワークを専門にして来た人間には恐らくは余り派生しなかった関係ではないのだろうか。例えば陶芸家の作品を作品展の度にDM用に撮影するとか、なにか他のアーティストとのコラボレートを仕事の中のシステムに組み込んではいけない物なのだろうか。

勿論全く感覚の違う相手と仕事をする場合や金銭的な感覚がかけ離れて噛み合わない場合もあるのだろうが、居心地が良く相性の良い世界だけを少しずつ造りながら、アーティストの作品の為だけの口コミの写真館のような物はできないのだろうか?

広告の媒体のように、ポスターだから、チラシだから、クールが長い短い、と言う事ではなく、一つの作品を直接的な関係の中で仕上げると言う事も、今の自分であれば可能な様な気もするのである。


10/7 少し仕事が一段落し、午前中はMACで仕事を進めながら、カラーの作品のセレクトを進める。先週見た時はあまり良い作品がないように感じたのだが、今日見直してみると、そこそこ枚数が揃って来たような感じがする。カラーの作品はプリントにするのとは違う感覚で写真集やポストカードのような手に持って見られる形態を基本に作品を選んでいる。今回は大別して2つのシリーズでまとめてみるつもり。

多くのポジを一枚ずつ見ているとあっと言う間に時間は過ぎてしまう。作品を選ぶ作業はその日の気分で憂鬱だったり、最高の気分だったり全く様々なのだが、今日は幾らかは心地よく、冷静に見ている自分を感じる。

先日撮影したデジカメのデータを夕方の納品に何とか間に合わせ、スタイリストと一緒に打ち合わせに出かける。限られた予算の撮影にかなりのプレッッシャーはかかるのだが、取りあえずできるところ迄はやってみるつもり。ぬかるみに足を取られて転んでしまいそうな、気の抜けない仕事である。


10/6 知り合いと奥多摩の廃村を探しに出かける。先日偶然奥多摩には少なくとも二つの廃村がある事を知り、比較的規模も大きく最近テレビでも取材されていたと言う倉沢と言うところに行ってみる事にした。

本来ならば下調べを十分してから行くところだが、ここの所の忙しさと、カメラの設定や準備に手間がかかり、倉沢と言う地名だけを頼りに、私の車では無理かも、と言う事で知り合いの小型の4駆に乗せてもらって行く事になった。

昨日もほとんど眠る事ができなかったのだが、先日やっと試作したデジカメを試したく、何とか朝早くから準備して今日のテストに間に合わせた。車を出してくれる彼女の自宅のある二小玉川を11時に出発し、細かい地図だけは用意したのだがどこにも昔の集落らしき区画は載っていない。取りあえず落石だらけの林道を暫く走り、大きな倒木で道が塞がった地点からは歩いて先に進む。地図からも道が消え、ほとんど進めないところ迄1時間の上り道を歩いたのだが、結局集落らしき物は見つからない。諦めて引き返し別の場所を探してみる事にしたのだが、地名や位置関係は明らかにこの近くなのである。

後一つ可能性のありそうな登山道を歩いてみるのだが、どうにも集落に続くようにも見えず電気が引かれていたような後もない。そんな事をしながらすっかり暗くなり、前の林道に戻ってみると送電用の電柱が山の奥の方へ伸びている。この山のどこかに明らかに村は存在するようだ。

諦めて帰りながら、戻ってからの仕事を考えるととても憂鬱になったのだが、山の中での生活も大変なのだろうと想像して複雑な気持ちになって来る。この廃村が私を引き付ける謎めいた部分には、未だ一人の老人がそこで暮らしている事がある。正確には廃村ではない訳だが、その95歳の老人はどんな日々を送っているのだろうか、一人になって数十年、道もないような山の中でいったいどんな暮らしをしているかと考えると、少しでもいいからその村を見て見たい。

スタジオに戻り夜中迄かかって仕事を終えたのだが、後で検索して調べてみると、その村は途中迄歩いてみた登山道の先にある事が分かった。東京からさほど遠くなく、休日には登山客なども通るのだろうが、光の無い夜の闇、道も繋がってない世界の果てにどんな日々があるのだろうか?興味はさらにつのって行く。


10/5 昨日遅く迄作業をしていたせいで、またしても寝不足なのだが、午後からは都内でライブの撮影に出かけなければならない。会場そのものは東京タワーのすぐ前のレストランなのだが、昨日準備をしそびれたので、デジカメのセットや充電のチェックに早くからスタジオに出かける事になってしまった。

メモリーのフォーマットや、細かいセッティングなど、デジカメは事前のチェックにかなりの時間が必要で、この部分を怠ると暗いライブの会場などではとんでもない失敗に繋がらないとも限らない。カメラに慣れてくれば幾らか余裕はできるのだろうが今の所は練習のつもりでいくつかの項目を一つずつかならづチェックするように心掛けている。今日は光源や、状況が分からない場所なので、フジのカラーネガを入れたF100も一台用意する。

会場のレストランは地下にあり、古めかしく重厚な内装がかなりの歴史を感じさせる。もちろん照明も古く、かなりの暗さにレンズの絞りは開放である。色々な角度から2台のカメラを手持ちで撮影し何時になく目の疲れを感じた。

ライブが終わってからは恵比須で遅く迄打ち上げに参加する。深夜に歩いて帰宅したのだが、明日は奥多摩に出かけるので、今日のデータを処理しておかなければならない。なんとかデータのコピーを済ませ3時を過ぎて休む事にする。


10/4 渋谷の現像所に出かけたついでに、東急ハンズで色々な素材を物色し、先日から考えていたデジカメようのリモコンを作りはじめる。どうしても離れたところからシャッターだけを操作できるようにしたいのだが、赤外線のリモコンが用意されていないのと、少しでも軽い装置で考えなければならない。

エアレリーズを購入してその構造や特徴を何とか利用できない物かと考えていたのだが、離れたところからシャッターを操作するためにはかなりの空気の容量が必要で、操作に相当な力がいる。取りあえず色々な材料だけは買って見て、スタジオに戻り色々と実験する。少しでも早く使えるようにしたいので、夜中になって思い付いたアイデアで再び作業を再開し、結局明け方迄かけて試作機を完成させる。

ニコンのデジカメにも赤外線のリモコンさえ付いていればこんな苦労はしなくても良いのだが、アナログな方法を考えるのも今後良いアイデアを生み出す切っ掛けになる。取りあえずは実験あるのみ。


10/3 午前中は絵の複写、午後からは先日の雑誌の続きのカットをデジカメで撮影する。渋谷の現像所から戻ってから、スタイリストと地元で打ち合わせ、夜遅くなって他の知り合いも合流し、12時過ぎ迄近くの店で飲む。

月末に予定している家電のカタログは、カット数やアイテム数はそれほど多くないのだが、スタイリングやモデルのカットが多く、スタイリストとの信頼感系が仕事の効率を大きく左右する。今日の打ち合せでは私の用意した資料が不十分で、今一つ具体的なアイデアを得る事はできずに終わってしまった。週が明けたら本格的にセッティングを進めなければならない。

何時になく来月のスケジュールなども埋まり始め、かなりストレスを感じながら眠りに就く。


10/2 午前中からの撮影だが幾らかカット数も多く、終わったのは8時を過ぎた頃。昨日も少し寝不足なのと、背中の痛みがおさまらなくてやや不調な一日だ。

撮影の途中で先日対馬で撮ったのデジカメの映像を担当ののデザイナーに見せたのだがひ評判は上々で、昨日見せた人もそうだったのだが、撮影方法の奇抜さにでは結構度肝を抜く物が有る。今後の構想が頭の中で色々と浮かんで来る。

9時前に渋谷の現像所へフィルムを出しに行き、かなり遅くなってから、一年振りに会う友人と近くの店で飲む。彼女と二人でこの近くに引っ越し先を探しているようで、近く迄来たので連絡をくれたとの事。結局2時過ぎ迄自宅で飲んですっかり打ち解ける。


10/1 撮影の前に、いくつかの打ち合わせ。月末から来月は少し忙しそうな感じである。昨日の頭痛はおさまったのだが、今度は背中が痛くて気が思い。

撮影そのものは意外と順調に進み、6時過ぎに渋谷の現像所迄持って行く。明日も早くから撮影なので、スタジオの片付けと準備にに結構な体力を使う。

夜になって知り合いに紹介されたジャズのピアニストのライブに野毛のドルフィー迄出かける。久し振りのジャズのライブだったが、このピアノはすばらしい。プレイヤーの存在がどんどん小さくなってピアノと一緒に空中に浮いているような錯角に陥る。バラードもすばらしく大きなうねりに微妙な緊張感が心地よい。結局次のイベントの11月7日のチケットは買ったのだが、CDを買いそびれたのが帰ってからかなり悔やまれた。紹介されたプレーヤと少しばかり酒を飲み、桜木町から終電で帰宅。この駅も来年にはなくなるとの事で野毛の街が少し遠くなりそうだ。


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